台風一過か(?)

びみょ~♪に暑かったり何だりで、今年の秋の紅葉はどうなっているのかと心配な・・・はわゆサン★
毎年、かならずどこかへ紅葉狩りに行きたい♪・・・と思いマス。
紅葉ついでに、どこかで生えたての茸でも買い求めて、ついでに出来たらどこかで、松茸の土瓶蒸しを食べたいなぁ~。
秋になるとついつい、こんな・・・野望を抱いては玉砕してしまうんですが、みなさまはいかがお過ごしでしょうか? (^_^;)

11月になりました(!)
世間さまではあちこち、「新米プレゼント!」・・・とか。
「新米、入荷しました!」の文字や幟を、見かけます。
今年も80歳になった山形の叔母さん(はわゆパパの妹・最上郡に在住)がわざわざ、実家に新米を送ってくれました(!)
叔母さんの送って下さるのは、スーパーのお米より数段美味しい。(^_^)v
毎年、「このお米は、大事に食べなきゃなぁ~」と、思います。
実りの秋、美味しいモノの多い日本の秋、そして台風やら災害ばっかりが気になる秋・・・。
米食文化の日本ですが、亜熱帯植物のコメは一体、どこからどうして日本にやって来たのでしょうか。(゜-゜)

とにかく何しろ、「まだ日本に、文字のない時代」に渡って来た、おコメさんです(笑)

110122_1417伝承によれば、「ツルが、稲穂をくわえて渡ってきた」とか。(ホント?)
「天竺(てんじく・インド)か唐土(もろこし・中国)から、密かに持ち帰られて伝来」とか、いくつか説はあるそうです。
日本で食べられているコメは「温帯ジャポニカ種」だそうで、水田で作りますよね。
弥生時代に稲作が始ったと言われてますが、当時の人たちが一体、どのようにしてコメを食べていたのでしょうか。

なんでも1万年(!)も続いたという、日本で一番古いとされる縄文時代ですが、この「コメが伝来する前の時代」では、今でも雑穀として食べられているアワ(写真・左)やヒエ、それに山菜や菜っ葉かなんかを入れて混ぜ込んで煮る「糅飯(かてめし)」を食べていたようです。
甑
このアワがまた、小粒すぎて、粥にしないと口に出来ない。
コメが伝来してもなお、お粥にして食べていたのは、生産量が少ないという事もあるけれど、このアワ粥の名残があったからとも言われているようです。

弥生時代の次の古墳時代(仁徳天皇とか、いましたね★)では、甑(こしき、蒸籠のこと)という道具が、何処からか伝来してきます。
これで今度は、コメ蒸して食べるようになりました。
蒸したコメは、「飯」と書いて、「いい」と読みます。
当時は、コメはコメでも、現代でもハヤリの古代の赤米(糯米・・・つまり、もちゴメ・左下写真参照)を常食。
蒸して食べるコメは、今の「おこわ(強飯の敬称)」に当たるのだそうです。

そして聖徳太子の飛鳥時代がきて、天武王朝時代を過ぎて、奈良を越えて平安末期にしてよ・う・や・く。今の「めし」にあたる固粥が登場します。

・・・これに500年くらい掛ってるってのが、またスゴイ。(^_^;)
とはいえ、この製法が下々にまで行き渡るまでにまた、更に時間が掛ります。
赤米平安末期には、現在の私達が常食してるコメに当たるうるち米(もち米より粘り気が少なく、柔らかい)」の生産が進んだのだそうですが、現在の「炊飯って技術」が・・・。

まずコメを煮て、蒸してから焼くというのが、炊飯の技術★
煮て、蒸すまでは土器と甑(こしき・古代の蒸籠)で出来ても、その後の「焼き」が、高温が必要な為に、鉄釜でないとダメだった・・・。
この釜が普及するためには、また更に鎌倉を超えて、室町まで掛って引っ張ってしまうんですね。Y(>_<、)Y

・・・ちなみ、に室町時代に、全国に稲作が行き渡ります。
これが延々と続いてとうとう、日本には「石高制度」まで敷かれるようになったって言うんですが、この石高って一体(?)
cara1-17・・・話によると、「お侍さんの働きは当時、(1人当たりで)1年間にコメを約一石消費するくらい」と、計算。
これが例えば加賀百万石なら、100万人の部下を養えるほど力のある藩であ~る、っていう意味になるんですって、ふ~ん・・・。(゜-゜)
さて、この石高制度。
成人1人につき、一日に3合(お茶碗6杯)の割合で計算したんだそうですが、それにしても、お百姓さんだって当時は6合(!)とか食べてたんだから、お侍さんだってきっと、米3合より、もっと食べてたんじゃないかなぁ・・・。

一石は10斗で、100升になって、それが1000合(1合につき150gで、だから計算すると150kg!)に当たるのだそうですが、10kgのお米が15個かぁ。
はわゆサンなら、1年で消化しきれないなぁ。(^_^;)

さて、コメはそんな風に食べられてきましたが、食具については、どうなんでしょうか。

日本にが伝来したのは、聖徳太子が生きていた飛鳥時代の頃のようです。
それまでの記述をみると、邪馬台国の卑弥呼さんの時代くらいしか文献はなくて、そこには「倭人は手食する」とあるそうなので、卑弥呼さんは、お箸の存在は知らなかったようです。
もちろん箸を伝えてきたのは、歴史の教科書で見る「遣隋使から」だとも。

箸さて、古代中国では、「箸と匙がセット」で使われていました。
なので箸はもちろん、匙とセットで日本には伝わってきました。

・・・さてさて。
ジャポニカ種のコメを食べるようになった日本人には、ご飯を食べるには、匙よりも箸の方が良いのはご存じの通り。
平安時代の朝廷では、箸台に銀の箸と匙、柳の箸と匙と二種類が置かれ、ご飯は柳の箸で食し、他は銀の箸で食したそうですが、匙の方はかような訳で、何だか、すたれていきます。(^_^;)
・・・この、食器に銀が使われていたのは、一説には、毒物が入ってると食器がすぐに変色して、発見が早いからとか。
室町時代まで来ると今度は、箸は食べるだけの御膳箸以外に、調理で魚類を扱う真魚(まな)箸や、植物食材を扱う菜(さい)箸。
はたまた、お客に食べモノを取り分ける「取り箸」など、細分化をしていったのだそうです。

ちなみに、今も食堂などで、現代の私達が良く使っている「割り箸」ですが★

これは、江戸の誇る代表的料理、鰻丼に添える為に発明されたというのは有名らしいです。
時は、十一代将軍家斉の頃。
写真ー2お江戸は日本橋界隈に、大久保今助という、お芝居のスポンサーがいた・・・そうな。
とにかく、すごい鰻マニアなんだけど、大好物の鰻を食べに行きたくても、ヒマがない。(^_^;)

当時の有名な江戸の鰻屋さんといえば、神田筋違中町の深川屋さんとか、尾張町(現在の銀座☆)の鈴木さん。
歩いて食べに行こうと思ったら、それは時間が掛ります。(-“-)
・・・そこで考えた、今助さん。
温めた糠の中に蒲焼を入れて、出前をしてもらう事に致します。
・・・ここで、何故に温めた糠なのか・・・???

・・・現在のような「保温式弁当箱はない」にしても、糠で一体、どれほどの時間、保温が保てるのでしょう・・・。
そんな訳で、もちろん途中で冷めてしまうし、美味しいハズの鰻も、大変にマズかったよう。
・・・そこで考えた今助さんは、今度は炊きたての丼飯の中に鰻(!)を入れて届けてもらったところ、これがひじょうに上手く行った。
ほかほかご飯に鰻のタレが程良くなじんで、とにかく旨いことこの上ない。
うなぎこれが芝居町の評判を呼んで、今助さんが贔屓にしていた日本橋の葦屋町、大野屋さんが「元祖鰻めし」の看板をあげる事になり、益々評判をあげました。

資料にも、「(鰻丼飯には)必ず引き裂き箸を添える。半分まで割った杉の角箸で、食べる時に裂き割ってこれを用いる」とあるそうです。
やっぱり、日本人は米に箸なんだなぁと、しみじみ感じ入った・・・はわゆサンでした。
それにしても、コメの歴史って長いわぁ。