林先生と知り合ってから、とにかく毎年毎年、NHK大河ドラマに関わる稽古を重ねて来た・・・はわゆサン★

学歴都立の普通高校卒で、その後は経理の専門学校、学生時代はとにかく、歴史が大の苦手でした。(^_^;)
・・・だって、年号を覚えなくちゃならないんですもの★

_N0A0629日本史は何だか、暗いイメージを持ってて好きになれないし、逆に世界史は、広すぎてワケ判らないし、地理もダメ。
とにかく、「調べ物」ってのが大の苦手なんですぅ~っ(!)
こんな・・・はわゆサンが、何を間違えて師匠について室町の剣術やったり、日本陸軍がやってた戸山流やったり、薩摩の示現流なんか、やったりしているんでしょお。。。

果ては、「出来心」でっっっ(!)
調べ物が大の苦手な・・・はわゆサンが、胃を痛くしながら国会図書館行ってみたり、ネットから電子辞書から、古本見ながら江戸の料理や食材の歴史を、何故に紐解くことになったのかっっっ。
・・・亡くなった母が今の私を見たら、腰を抜かして驚くに違いない。(-_-;)

それでも、それなりに手応えはありました。

まず、食べ物の歴史を紐解く事は、日本の歴史(と経済)が窺えるので興味深いモノでした。
例えば仏教が伝来したので、それから日本人の肉食は減っていく訳ですが、もともとの仏教を伝えて来た中国では、殺生戒僧侶の一部と信徒が守るだけで、一般庶民には全く関係が無かったとか。(-“-)

6-260・・・そ、そおいえば、中国では猿だろうが犬だろうが、とにかく食べられるモノは何でも食べるお国柄だった・・・。

日本に仏教を伝えてきたのが中国で、なので今まで何となく中国には仏教徒ばかりだと思っていたけど、例えば(はわゆ家は、一応は仏教徒なので★)お葬式の際には生臭モノを控えたり、仏前に供えるのにも同じようにしていました。
でもそれって実は、大和朝廷の陰謀(!)を引きずっていたからなのでしょうか・・・?
・・・何だか良く判らないけど、日本が肉食を(陰でこっそり食べてはいても)絶っていた時期って、長かった、長かった。(-_-;)

・・・とにかく、1人資料を読んでいる分には、テストも受験もありませんので。
その資料も、あり過ぎては「どこで読んだモノだか忘れて」しまうし、また以外に色々な作家の方の書物を手に取っても、同じ資料をもとにしている事もあるので、重複する処もあります。

よく「日本人は、いつから三食になったのか」と話題になったりしますが。

資料を読めば、それは・・・都会と農村では生活は全く違いますし、電気も水道もないあの時代で、人力オンリーで農作業(!)をしようと思ったら、とにかく日本の主食はコメですから、その働くエネルギーをカロリーの低いデンプンで補おうとしたら、一日で1人6合以上(!)は必要だったそうです。
_N0A1599_1農繁期なら、一升以上(つまり10合以上!)
・・・それをたった3回の食事回数でこなそうものなら、とてもの事にまず胃が許さないっ・・・と資料に。

・・・お米1合で、お茶碗に2杯分というから、6合だと12杯か(?)
それを3回に分けると、1回に付き4杯?

・・・繁忙期だと1人20杯以上必要とあるから、1回につき最低でも7杯か?
っていうか、お米(江戸の町と違い、農村はお米に麦など混ぜて食べていた)を一体、毎日何合炊いていたのだろう・・・。(-“-)

実際には、戦の折の侍が三食でまかなえるハズもないし、農村では三回を超えて食べていたと資料にありますが、自分の胃袋に見合わせれば、今まで嫌っていた歴史が一味、変わっていきます。

・・・そういえば明治産まれの祖母が、私が子供の時分にはよく、彼女が子育てをしていた頃の話をしてくれたんですが。

彼女の子供は、大正生まれの長男を皮切りに、昭和一ケタ産まれの女の子と併せて3人でした。
この他にも、当時の彼女は、東京都の中野で大学生を預る下宿屋も営んでいたといいます。
・・・昭和も15年とか、その辺りの頃でしょうか。
この長男は何しろ体育会系で、その当時はたしか水泳部と柔道部を掛け持ちしていたとかで、中学生ともなるとその食べる量が半端ではなかった・・・。

朝は、む_N0A2186っくら起きで、男茶碗にてんこ盛りで3杯。
昼はドカ弁で、もちろんオカズとご飯は別の容器に。
そして夜は8杯は食べたと聞きますが、私にはまったく想像が付きません。(^_^;)

・・・もっとも、上記の1人6合も平均してでのことでしょうし、年齢差もあることだと思います。
今までは「侍の所作の指導」の折に、その資料として時代性が判るハウツー書物を読んではいましたが、それだと頭しか使いませんが、食べ物の本を読めば、そこは五感にしみじみと訴えてきます。

「ガス・水道・電気はないし、不便な時代」ではありますが★

そのエネルギー事情は水車とか馬車、牛車なんてのもありますが、一番大きいのは人力でした。(゜-゜)

・・・そんな事を思う中、今年の夏は来年の大河ドラマのロケが長く行われるとの情報があったので、早めに夏休みをとる事にしました。
与論ー1今年は春から寝込んだりしたので、ちょこっと驕って鹿児島県は徳之島や与論島へ足を伸ばしてみました。
飛行機の関係で、帰りは沖縄から東京に戻りましたが、初めて行ったこの島々は、歴史の苦手な私はつい、おろそかにしていましたが、激動の歴史を持っていました。
まず島として独立していたのが、ついで琉球王国の一部になって、薩摩藩になって、太平洋戦争の折にはアメリカの一部になってに至ります。

観光なので、島の民俗資料館的な処にずいぶんと行きましたが、戦後くらいまで住んでいたという住居や生活用品、手動の機織り機に糸巻き車、サトウキビの圧搾機械などなど展示してあります。
こんなHPをしているからか、まるで江戸時代に戻ったかのような旅でした。

そしてもう一つ、今は鹿児島も沖縄もサトウキビ畑ですが、昔は水田だったんだそうです。

・・・考えてみれば、コメは亜熱帯の植物なので北で育てるよりも南が効率が良く、当時は二毛作で収穫していました。
ところが政府の「コメの減反政策」で、止めれば政府からお金も出ます。
住居も、どんどんと今様の建物に変わり、クーラーが付き、昔の生活にはもう戻れません。
当時の家屋を建てる職人も、屋根を葺く職人ももう90代で、数も1人くらいで後継ぎはいません。
伝統も文化も、失くすのはあっという間です。

与論の民俗村で聞く処によると、昔の建物は涼しくて、とても居心地が良いとのこと。
ただ、台風の時には怖かったのだとか。

与論ー2防風林、防風壁に覆われていた島の家、特に与論では今年は水不足で、サトウキビの収穫が見込めません。
水道は通っているので不便はないけど、珊瑚の島なので水にはカルシウムが多く、よくお風呂の管が詰まるのだそうです。

歴史が苦手な私が、このHPで少ないながらも書物を紐解き。
・・・仕方がないのかも知れませんが、それらの技術も「きらきらとしていて欲しかったな」と思う旅でした。

以前、GWで沖縄の宮古島に行ったのですが梅雨が始り、大量の雨で土砂が海に流出しているのが飛行機からでも見降ろせました。
サトウキビ作付のせいとも書かれてますが、水田だったら、あの惨状はなくて済んだのでしょうか。